ピカソの戦争《ゲルニカ》の真実
ラッセル・マーティン 著 木下哲夫 訳 白水社 「芸術家をなんとお思いか。画家なら目、音楽家なら耳、詩人であれば心に抒情、ボクサーなら筋肉のほかになにももたない愚か者とでもお思いか。それはとんでもないかんちがい。芸術家はそれだけでなく政治的な存在でもあり、世の中の悲しみ、情熱、あるいは歓びにもつねに関心を抱き、ただその印象にそって自らをかたちづくっている。他人に興味をもたずにすませるはずもない。日々これほど広く深く接する暮らしそのものから、冷めた無関心を装って、自らを切り離すことなどできるはずもない。いや、絵はアパートを飾るために描かれるのではない。絵は戦争の道具です。」 パブロ・ピカソ ・・・一ヶ月におよぶマラガ攻防戦の始まった一月八日、ピカソは怒りをこめて『フランコの夢と嘘』と題する詩をスペイン語で著した。 「フランコの夢と嘘」 震える梟、不吉なポリプの剣の襲撃、フライパンの真ん中に立つ裸の司祭のズボンから毛をとる洗濯たわしのファンダンゴ---鉛---牡牛の心臓のかさぶたで揚げた鱈のアイスクリーム・コーンに置かれ---はらわたを編んだ蝸牛の皿の橇の鈴---葡萄でも無花果でもない直立した小指---雲を貧しく織り染めるコメディア・デラルテ---ゴミ集めの荷車からとった美容クリーム---泣き顔の女中のてごめ--- こどもらの悲鳴、女たちの悲鳴、小鳥たちの悲鳴、花々の悲鳴、材木の石の悲鳴、煉瓦の悲鳴、家具の寝台の椅子のカーテンの鍋の猫の神の悲鳴、爪立てあうさまざまな臭気の悲鳴、大鍋で煮える悲鳴の肩を刺す煙の、財布とポケットが岩に残る足跡に隠す皿から太陽が拭き取る綿と毛糸を噛む歯を折り、骨をしゃぶる海を氾濫させる鳥の雨の悲鳴。 詩とエッチングを組み合わせた《フランコの夢と嘘》は最終的に売りに出され、収益金はすべてスペイン共和国を防衛するための資金となった。 世を去る四半世紀前、《ゲルニカ》が自信に溢れ、今よりはるかに無邪気なニューヨークに在ったころ、恐怖に苛まれる時代のさなかにピカソはこう語った。 「わたしは平和に味方し、戦争に抵抗する」。 #
by a_citizen
| 2004-05-28 11:51
| 戦争は嫌だ
Barry雑言様よりトラックバック記事を頂きました。
-------------------------------------------- 戦争論-平和への道。 その昔、小室直樹著の「新戦争論」を読んで、戦争が何故無くならないのかを理解した(と思った)時があった。 細かくは覚えていないが、ラウゼウィッツの「戦争論」を踏まえて、(現在行われているような)平和運動をするのではなく、戦争を押さえる(減らす)仕組みを作らない限り戦争は続くという感じだったはず。 # ラウゼウィッツの「戦争論」との違いが思い出せないが、本の山の中からの救出を断念。 10年以上前の話だが、あるヴォーカリストが、反戦や政治色の強い歌詞が流行っている事に関して「ジョン・レノンが歌って変わらなかったのに、俺たちが歌っても世の中が変わるはずが無い。」とインタビューで答えていたのに、衝撃を受けたのも同じ時期。 戦争論なるものをあまり読んでいないので(避けてきた?)、自分と同じような主張の人が既にいると思われるし、またその主張を完膚なきまでに叩きのめす意見が出ているかもしれない。 それでも、とりあえず、自分の考える戦争論(というより平和への道)を書いてみたい。 戦争とは2つの側面をもっていると思っている。 マクロとミクロ。 (戦争を引き起こす)政治的行動と(戦争に引き出される)個人的感情。 つまりはこれが、そのまま「現実論」と「理想論」とに分かれると考えている。 現実論で「戦争論」が語られるのは、マクロである政治的側面での衝突の回避。 理想論で「平和運動」を訴えるのは、ミクロである個人的感情の中の平和への願い。 本当に平和を希求するのなら、この二つが別のモノだと考え、そして同時に平和に向かわないと無理だと思う。 外交や政治で戦争が収まっても、遺恨の根が残っていれば、いつかは紛争に繋がる。 民衆がどんなに殺し合いを望んでいなくとも、外交の最終手段として戦争が展開される。 完全に分けて考える必要は無いかもしれないが、平和への道しるべが違う事を認識する必要があると思う。 平和という終着駅は一緒のはずなのだから。 「平和運動」を無意味と切り捨てる「現実論」。 「戦争論」を非人道的と主張する「理想論」。 皮肉を言えば、平和に向かっている両者が相容れないという事は、人間には「平和」など実現出来ないという証拠なのかもしれない。 戦争を回避するシステム(国際法?)を作るのは難しい。 様々な国、様々な思想や民族、そして地域が利権を争うのが外交なのだから、(戦争でなくとも)衝突は避けられない。 どんな時でも「平和」を希求する思想を持つことは難しい。 「被害者と加害者の調停と対話プログラム(修復的司法)」で、親族や大切な人を殺された被害者に加害者を許せと言っているようなものだ。しかしながら、遺恨が残れば衝突に繋がる。 どちらもとても難しく、具体的な案すら出て来ない。 また、案が出来たとしても、それは指輪物語で「指輪を捨てに行く」という覚悟が出来たに過ぎず、険しい道はそこから先にある。 が、平和を欲するなら、この二つが協調して、進んでいかないと戦争は繰り返される。 追伸。 本当は、今週のテーマ「今一番欲しいものは?」で「こんな戦争論」としてエントリーするはずが、グダグダしていたら、週のテーマが変わってしまいました。 なので、内容も中途半端な感が否めないですが、とりあえず投稿してみました。 もうすこし内容がまとまったら改訂か新エントリーするかもしれません。 #
by a_citizen
| 2004-05-20 22:54
| 戦争は嫌だ
繰り返してはいけない歴史
「ベトナム・ソンミ事件」 今からたった36年前の1968年、ベトナム戦争中に アメリカ軍がソンミ村の村民を短時間に大量虐殺したのが ソンミ事件です。 イラクで、これに近い事が行われていないとは言えない今、 是非ganeshaさんが紹介されている 平和運動家 吉川勇一さん翻訳の「ソンミを振り返る」を 是非読んで、 人間を狂気に走らせる戦争の恐ろしさを 知って頂きたいです。 #
by a_citizen
| 2004-05-18 10:10
| 戦争は嫌だ
美術評論家 椹木野衣さんが発起人の反戦運動が「殺すな」です。 「殺すな」はベトナム反戦運動の渦中でベ平連が 『ワシントン・ポスト』(1967年)に出した岡本太郎氏の言葉を 35年の時を越えてサンプリングしたそうです。 追記 反戦Mastersに参加頂いている「今日の戯言・昨日の譫言」の ganeshaさんから情報を頂きました。 ----------------------------------- 吉川勇一さんのサイトをご覧になられたのならご存知かもしれませんが、 1967年のワシントン・ポストへの意見広告は、ベ平連代表の小田実さんが発起人となり、淡谷のり子、永六輔、開高健、加藤芳郎、桑原武夫、小松左京、鶴見俊輔、松本清張などが呼びかけ人となっていたそうです。 現在 販売しているか定かではありませんが、この岡本太郎さんの文字を使って和田誠さんが「DO NOT KILL ANYWHERE, ANYTIME」とデザインしたシールとバッジもあるそうです。 -------------------------------------------------------------- 情報ありがとうございます。 こちらやこちらで購入出来るようです。 #
by a_citizen
| 2004-05-17 18:16
| 戦争は嫌だ
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